昔を懐かしむシリーズ、今回はインターネットについて。
インターネットというものを自分が活用し始めて、もう20年以上になります。
自分は日本全体の中で言えば比較的早くインターネットに触れ始めた人間だったと思いますが、かといって本当の黎明期(パソコン通信など?)を知っているわけではありません。
自分の場合はダイアルアップ接続だとか、ISDN回線が登場してからの事なので、少ないといってもそれなりの人数がインターネットを活用していた時代でした。
そんな時代からインターネットに触れている身としては、最近のインターネットというものにおけるコミュニケーションに関して、少々寂しさを覚える点があります。
それは、かつてあった「無礼講」の文化が、極一部を除いて消滅してしまっているという点です。
目次
無礼講とは?
無礼講とは、年齢や役職といった社会的な要件をあえて意識しないようにして宴会などを楽しむ趣向の事です。
例えば会社の飲み会のような席で、普段の役職であったり先輩後輩といった関係性を前提としてしまうとお互いに気を使ってしまう所があるりますよね。
そこであえてそういった概念を無いものとして、その場を楽しもうといった趣旨ですね。
無礼講の厳密な起源については諸説あるようですが、現代日本における無礼講というのはこういった「年齢や役職関係なく楽しもう」といったものと言えます。
インターネットの無礼講文化
SNS時代からインターネットに深くふれるようになった人、そしてそういった世代の人にとっては馴染みが薄いと思いますが、かつてのインターネット界隈には無礼講の文化が一般的に存在していました。
今は比較的現実のプロフィールを出した状態でSNSなどを活用している方も多いと思いますが、かつてのインターネットは匿名が当然といった状況でした。
その匿名性を考えた場合、相手の年齢性別等の情報が分からない状態でやり取りする事が非常に多いのが常であり、そういった中である種必然的に生まれたのが無礼講の文化なのです。
「どうせ匿名の世界なんだから、だったら堅苦しくない無礼講スタイルで気軽に交流しようよ」
というのが2000年代前半頃のインターネット界隈に存在していた共通認識だったのではないでしょうか。
当然すべてがそうではなかった
といってもやはり、そのコミュニティによって雰囲気は全く異なりますから、無礼講が前提の状況がある一方で、そうではない状況もありました。
ある意味では無礼講の文化は2000年前後の時期がピークだったのではないかと推測します。
つまり、本当の黎明期に限られた極一部の人だけ活用していたパソコン通信の時代よりも、ある程度不特定多数の人が参加しつつ、それでいて今のように大多数の人が参加する状況でもない、そんな限られた時期において認知されていた文化性だったのではないかと推察します。
「ネットとリアルは別」という認識が強かったからこその無礼講
今現在において無礼講の文化がネット上で成立しづらい理由の一つは、現状ではネットとリアルが非常に密接に関係しているという事が挙げられます。
以前のネットユーザーの多くは、「ネットとリアルは別」という認識を現在のユーザーよりも遥かに強く持っていました。
ですからネットでのコミュニケーションはあくまでもネット上でのものであり、それがリアルに繋がるものではないという認識が一般的だったんですよね。
しかし現状ではリアルなコミュニケーションツールとしてネットが活用されているのが現状ですから、もう完全に「ネットとリアルは繋がっている」のです。
そうなってくると、もはや「ネット固有の常識」という概念が成立しなくなり、現実での常識がネットにおいても適用されてしまう状況が成立しました。
少し前に話題になっていたツイッターでの「FF外から失礼します」といったものも、以前のインターネットを知る身としては違和感のある行動なんですが、一般常識に照らし合わせれば「初対面の人に対していきなりコメントを付けるのは失礼だから・・・」といった考え方も非常に妥当なもののように思います。
ネット空間自体が正に「無礼講」の舞台だった
無礼講の起源として、ウィキペディアによると以下のようなものが想定されているようです。
具体的に「無礼講」という名称を用いたのは、鎌倉時代末期、1320年代初頭に、公卿・儒学者である日野資朝とその親戚・同僚の日野俊基が開いた会合が、史料上の初見である。これは茶会の一種で、自分の地位に合わない衣服をあえて着ることで、互いの身分の上下の区別をわからなくして、純粋に才能のある者だけを集めて歓談を行った先進的な学芸サロンだった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%A4%BC%E8%AC%9B
かつてのネット空間自体が、ある意味こういった意味での無礼講状態だったようにも思います。
かつての「2ちゃんねる」なんかも、一般常識的視点で見れば「罵詈雑言の巣窟」のようにも扱われていましたが、一方で有益な情報が驚くほど集積している場所といった側面も持ち合わせていましたね。
今は非常に多くの人が気軽に参加するのが当たり前となったインターネットですが、以前はある程度以上のITリテラシーを持ったしか参加していない状況だったと推察されますから、必然的に先鋭的な英知が集りやすい状況だったとは言えるのでしょう。
コロンブスの「新大陸発見」的なネット空間の変移
無礼講の文化がほぼ継承されていない理由の一つとして、後からやってきた人達が先人の文化を然程尊重しなかったという事も言えるでしょう。
コロンブス達が先住のアメリカインディアン文化を尊重する事無く、自分たちの「新大陸」を発見し開拓したのと同様に、SNS時代以降に大挙してネット空間へ乗り込んできた人達は、先人が持っていたネット文化を尊重するという発想はあまりなく、あくまでも一般常識でインターネット文化というものも解釈しようとしました。
結果的に無礼講の文化を理解していない人々から見れば「旧来的なネットユーザーコミュニティ=言葉遣いが汚い、行儀が悪い」といった解釈となるのは当然であり、結果として新しく参加するユーザーだけではなく、以前からインターネットに参加していたユーザーも一般常識を前提とした態度を取らざるを得なくなってしまったという見方も出来るのではないでしょうか。
コロンブスのケースとは違い、ネット文化の変移に関してはさほどネガティブに捉えるつもりもないんですが、とは言え古いユーザーとしては少々寂しさを感じる部分もあるというのは偽らざる心境です。
結果、窮屈になったネット文化
最近のインターネット文化に関して思うのは、完全に「普通のメディア」と化してしまっているなという事。
以前のインターネットはあくまでも「ネットとリアルは別」という認識を前提としたものであり、だからこその自由がありました。
あえて特殊な空間として規定することで、そういった趣旨を楽しむ、まさに興のある空間だったと思います。
それが今では、それこそSNSでいきなりコメントを書き込む事すら躊躇されるような、そんな「普通のコミュニケーション」の一形態になってしまっています。
これは必然的な帰結とも言えるのでしょうが、やはり寂しさというか、物足りなさはありますね。
やはりリアルと切り離した特殊空間としての「ネット」というもの、そういったものにこそインターネットの面白さが詰まっていたのだろうと思います。