【Keyアニメ】劇場版AIRが原作ファンに受け入れられなかった本当の理由

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最近ふとしたキッカケで劇場版AIRの事を思い出しまして。

当時は黒歴史扱いが当たり前だったり、あるいはそんな評価に反発するように、このアニメを評価してみたりする人も居たり…そんな事があったりしたなぁと。

劇場版AIRが何故”違う”のか

自分にとって「AIR」という作品は青春そのもの…は流石に言い過ぎですが、この作品ほど夏の匂いを強烈に感じた作品は後にも先にもないように思います。

そんな思い入れのある作品が、原作登場から5年(厳密には4年と数ヶ月かな?)後に劇場アニメ化されたとなったら、そりゃ気になる訳です。

当然のように、というか、基本的に映画館に行くことのない自分が珍しく足を運んでまで見た劇場版AIR…見終わった後の感想は、「まぁこんなもんか?」というぐらいのものでした。

というのも、当時エロゲに触れていた人なら分かるかもしれませんが、エロゲのアニメ化=地雷という認識は、エロゲユーザー間では当たり前のものだったので。

そんな訳で、そもそもの期待感が(自分の中では)それほど高くなかったので、比較的冷静に、というか冷淡な感想を抱いていたように思います。

しかし、ストーリー展開には大きな、致命的とも言える不満があったのは確かで、どちらかと言えば見終わった直後よりも、しばらく経って思い起こした頃の方が不満度は高かったかもしれません。

劇場版AIRが何故多くの原作ファンに受け入れられなかったかについての一般論

この記事を書こうと思ったキッカケは、劇場版AIRとグーグルで検索をした時に出てきた、ニコニコ大百科の「劇場版AIRとは」というページ

参考 劇場版AIR(デザキエアー)とはニコニコ大百科(仮)

このページ内で語られている批判される原因となったであろうという点は以下の通り

脚本の中村誠は本作の大ファンで、脚本を書く間何度もプレイしなおしていたが、出崎は一切原作をやっていない。製作中は、中村+Key監修の脚本から内容をより練り込んでいった。原作ファンから反感を買った大きな理由の一つ。
内容がかなりアレンジされており、登場人物の呼び方が違うなど細かい点でも批判された。これはCLANNADも同じ。
本作では主人公・国崎往人の最終目的である「祭り」が重大な要素を占めている。それに関連して、演出上において祭りを彷彿とさせる鬼の面や和太鼓など汗臭い、ないしはやや不気味さすら感じるシーンが挿入されており、原作ファンの守備範囲外な演出が目立ったことは否めない。
そもそも終始惜しげも無く多用される出崎演出が多くの原作ファンの趣味に合わず、古臭いと度々否定されていた。
ラストだけ唐突にわりと忠実な原作再現(ゴール)している。本作を評価する人でも「これは蛇足」とする声もちょくちょくある。

この辺の話は当時もどこかで見かけた事があったような気がします。

でも自分はソコじゃないと思うんですよ。

たしかに、原作の事を理解していない監督による内容の練りこみが悪い方向に作用した可能性はありますけども。

祭りのシーンが―――といった部分はほぼ関係ないかと。

出崎監督ならではの演出が合わなかった、というのはあるかもしれませんね。ただ、これもまた本質的な問題ではないと感じます。

ラストのゴールはもはやギャグ()ですが、これはトドメを刺す要素であって、核心ではないと思うんです。

これから語る見解は、あくまでも自分の視点からのものですが、きっと共感してくれるAIRファンも居るじゃないかと。

劇場版AIRが何故多くの原作ファンに受け入れられなかったかについての持論

一言で表現すると、

「AIRをひと夏のラブストーリーとして描こうとしたから」

じゃないかと。

根本的に言うなら、本作のコンセプトは「もう一つのAIR」なのであり、原作再現を求めること自体が間違っていたと言えなくもない。
仮にそのコンセプトを知らなくても、90分という短い尺、原作クラッシャーとして有名な監督出崎統という要素から、それを十分予想し得たという点は否定出来ない。
裏を返せば、「当然改変ありきの内容」と鑑賞前に考えている視聴者が少なかったことから、こういった厳しい批判が止まらなかったのである。

劇場版AIRを否定的に論ずる人に対する批判として、原作再現度に関する話が度々あがっておりましたが、自分を含め、多くの原作ファンは別に、原作そのものが90分の劇場アニメで表現されるとは思っていなかったと思います。

「当然改変ありきの内容」というのがどの程度のものを指すかによりますが、そもそも原作はゲームであり、劇場アニメになる時点で改変というか変異が不可避であるのは当たり前の事です。

そもそも絵からして違う訳で、それを嫌がるファンはそもそも見に行っていないでしょう。

自分自身にしても、大幅に変わったキャラデザの時点で別物感を感じていたので、原作通りのストーリー展開じゃないから嫌…という発想は別段ありませんでした。

むしろ、AIRという作品をどのように90分で表現するのか、という点に関しての興味が「劇場版AIR」に対する興味の大半を占めていたように思います。

とは言え、やはり譲れない部分はあるのですよ。

そんな譲れない部分として極めて端的に(AIRファンなら)思いつくであろう部分に、この劇場アニメは、いともあっさり土足で踏み込んでしまったように感じる…それが冒頭で書いたように「ひと夏のラブストーリー」化なのです。

AIRという物語を”一般的な意味でのラブストーリー”として描かれる事が、自分にとっては不快な事でした。

AIRに対して、それとは違うものを求めて劇場に足を運んでいた人にとって、単なる「恋に恋する女の子」として描かれた美鈴と、そんなキャラが似合うストーリーをAIRという作品を構成する素材を使って描かれる事がどれほど苦痛な事か、この感慨はAIRファンの中でも意見が分かれる所かもしれませんね。

冗談でもなんでもなく、まさかの巨大ロボットものになるとか、そっちのほうが確実に良かったのは間違いありません。

もちろんそれはそれで批判された可能性は高いですけど、この劇場版AIRに対する一部ファンが感じた強烈な不快感は、実現してしまった改変のベクトルが最悪に近い方向を向いていた事によるものだと、強く感じます。

先述の通り、自分はある種の達観のもとに劇場へ足を運んでいたので、然程の衝撃もなく劇場を後にしましたが、大きな期待感を持った人が、ここまで語ってきたような不快感によって、期待感の大きさゆえに憤慨してしまったとしたら…心中お察ししますとしか言えません。

もし自分が劇場アニメとしてAIRを作るとしたら

下手したら往人も美鈴も出さないかもしれません。

いや、背景ぐらいには出すかな?

あの町を舞台として、別の主人公を立てて物語を展開したいですね。

ちびっこ二人組(男の子と女の子)があの町を散策するお話とか良いんじゃないでしょうか。

その中で、本編での登場人物(や動物)との触合いなんかを描けば、原作ファンも納得なんじゃないでしょうかね?

そしてその二人が最後砂浜で遊んでいるシーンで背景には往人と美鈴が…って、原作知らないと分からないネタですねこれはw

こんな感じの「劇場アニメならではのAIR」だったなら、きっと深く深く愛されただろうになぁ…と、そんな事を思った、劇場アニメから12年経った2月なのでした。


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